#15(最終回)
少し話は逸れる。数年前に紙面で不登校の発信をしているある団体とオンライン上でやりとりをする機会があった。これまで14回に渡って書いたこのコラムの概要を紙面上に掲載するという打ち合わせだった。結論的にはそのコラムの掲載は実現しなかった。
今、考えるとこの団体との交渉は実現しなくてよかったと思っている。そして、この団体の担当者とのやりとりも「クレスコ(大月書店)」での2年間のコラムを書くエネルギー源になった。
オンラインでの打ち合わせということで、担当者に私がコラムとして書きたい内容(基本的にはこれまでの14回で書いてきたことの要約)を伝えると、「コラムを読んで一人でも傷つく人がいるのなら、それを掲載することはできない」と私に言った。
それを聞いたとき、団体とは交われないと思った。果たして、何かを発信するときに一人も傷つかないことなどありえるのだろうか。
ここまでの14回のコラムを読んで、私の文章に傷ついた人もたくさんいるであろう。
一方で、全く知らないお会いしたことのない方から励ましのメールをいただいた。
そして、このコラムの閲覧回数は他の記事と比較して圧倒的に多かった。それだけ、関心のあるテーマなのだろうと感じた。
改めて、誰一人傷つかない発信を読んで、人の心は動くのだろうか。
発信することは必ず誰かを傷つけてしまうことを理解したうえで発信をし、その傷をできる限り小さくできるような工夫(多様な職種の専門家に相談をしたり、同業者に原稿を読んでもらったり、友人等に相談をしたり、仲間と議論をしたり)することだと私は思う。そしてその工夫の場が私にとっての「心の居場所」なのだろう。
人間は生活をしていく中で傷つかないということはあり得ない。居場所作りで大切なことは、子どもたちが傷つかない居場所を作ろうとすることではない。傷ついたときにそれを言葉や態度で表現することが保障され、その傷つきを受け止めてくれる支援者がそこにいることだ。
それによって、居場所探しにさまようのではなく(Cさんの事例を参照)、不快な気持ちを抱えながらでもそのコミュニティの中で生活を送ることが可能になる。
人間は「居場所」に出会い、「居場所」を失い、また新たな「居場所」を見つけていく。
重要なことは居場所に適応できない自分や、居場所を失った切ない自分をこころの中にしっかりと置けるようになることだろう。そして、次の居場所を見つける(出会う)ために試行錯誤ができる能力を身につけることだ。
臨床心理士が提供するカウンセリングもこれに似ている。相談者は臨床心理士との対話の中から生まれてきた試行錯誤を繰り返しながら、自分の心理的問題や課題を軽減、解決していく。そして多くの人が「あとは自分で何とかやれそうな気がする」と語り、居場所であった相談室から旅立っていく。最後の相談が終わり、相談室の扉を開ける後ろ姿は、それぞれの新たな「居場所」を見つけていこうとするたくましさを感じる。
全15回のコラムはこれで終わりです。
近年、私が感じている居場所施策の違和感について、「クレスコ(大月書店)」で執筆したコラムを加筆修正しました。
読者の方にとって「居場所」について考えるきっかになったら嬉しいです。
富山県こどもこころの相談室
代表(臨床心理士・公認心理師)
深澤 大地

Comments